2007/11/24

ぬくもり



私の住んでいる病院の寮には
北海道に、青森に、大阪に、
全国津々浦々
地方から入職された人たちがたくさん住んでいます。
・・・ということは、旬になると全国の特産品がたくさん届けられてきます。

私が夏にお母さんのトマト攻撃で悲鳴をあげたように
北海道出身の私の病棟の仲間は最近ジャガイモ、玉ねぎ20kg!
で(うれしい?)悲鳴をあげていました。
(家族っていいね^^)

そんなときはおすそわけ。
持ちつ持たれつ、ご近所同士。
私はおばあちゃんが送ってくれた野菜ジュースがたくさんあるので、
野菜ジュースと物々交換。

柿やら、
みかんやら
じゃがいもやら
玉ねぎやら
かぼちゃやら

たーくさん。
収穫の秋!

今日は・・・

玉ねぎとトマトのスープに
温野菜サラダに
小松菜の玄米チャーハン

・・・を作りました☆

ああ、命が蘇る。
お蔭様で疲れもイチコロ。
ご馳走様ー!^^

そして、明日はずっと前から楽しみにしていたヒーリングタッチのワークショップだ。
http://httokyo.exblog.jp/i4/

いっぱい学んでこよう。

先日癌の腹膜転移による痛みでなかなか眠れなかった人も
お腹を触診するふりをしながら
このセラピューティックタッチ(ヒーリングタッチ)をすると
「暖かい手だなあ・・・」といって
すーっと眠っていきました。

これってすごいなあと思う。

ペンタジンやアタPやセレネースやロヒプノール・・・
お薬はいっぱいあるけれど
やっぱり体にたまると副作用がでてくる。
精神的にもよくない。

薬は必要なときは使わなければいけない。
けれど連日の投与であまり使いたくないなーと思うとき、
この技はすごく役に立つ。
不安の緩和などの精神的なケアにもなる。
何より、人の温もりが伝わるっていいなあと思う。
(触られることを嫌がる人も中にはいるけれど・・・)

人の体についてはまだまだ20%しかわかっていないと聞いた。
人の体の内と外をとりまく、生体エネルギーの存在。
これを解明して、扱うことを学んだ時、医療はどうなっているんだろう。
もっとぬくもりのある暖かいものになっているんだろうか。

未来が楽しみ。

2007/11/08

癒し


「いやす」とは、
救済と解放の力を持つ愛をもって
抱擁し、受容することです。
どのような時でも、
すべての罪を超える力強い愛をもって、
抱擁し、受容することです。

(ヨハネ・パウロ2世)

本屋さんで立ち読みしていた時に飛び込んできた言葉。すごく胸に響いた。
これこそが真の癒し、イエスが行った癒しなんだ。

2007/11/02

永遠



11月は死者の月。

私の勤め先の病院の地下通路にあいだみつおの言葉を載せた日めくりカレンダーがかかっていて、いつも出勤するときに「今日の言葉はなんだろう?」って見ているんだけど、10/31のことばは「おかげさん!」でした。

私たちがこの世に生きているのもご先祖さまの「おかげさま」
この世に生き、そして生をまっとうされた方がたに思いを馳せ、感謝を捧げていこうと思う。

そして、死者に思いを馳せると「永遠」についても考えざるを得ない。

ターミナル・ケア(末期医療)のパイオニア的な存在である精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが約2万人(!)もの臨死体験をされた患者さんと面接し、私たちが死後、経験するであろうことについてまとめた論文の中でこんなことを書いていた。


「第四期:生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぶ人もいる。過去、現在、未来にわたるすべての知恵がそこにあったとしかいえないと報告した人たちも多い。批判することもなく裁くこともない愛の本源である。

・・・走馬灯のように「ライフ・レビュー(生涯の回顧)をおこなうのはこの段階である。自分の人生のすべてをそこで振り返ることになる。その人が生前にとった行動がまったく知らない人も含めて他者にどんな影響を与えたかが、手にとるようにわかってくる。 ほかにはどんな人生を送ることができたのかも示される。

あらゆる命がつながりあい、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響を及ぼしているさまを目の前にみせられる。

天国か地獄のような場所だとわたしは思った。たぶんその両方なのだろう。

神が人間に与えた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、誰にも恥じることもない最高の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。

生還者の報告によれば、死後の生の入り口では、誰もが同じ問いに直面する。

「どれほど奉仕してきたか?助けるために何をしたか」

これほど厳しい問いはない。そのときに答えればいいと思っていたら手遅れになる。」

この文章を読んで十字架の聖ヨハネの言葉を思い出した。

「私たちは生涯の夕べに、愛について裁かれるでしょう。」

さらに、リック・ウォレンは「人生を導く五つの目的」という本の中でこのように表現していた。

「私たちが地上でしたすべてのことについては、永遠における結末が待っています。あたかもギターのピックで弦をはじく時にある音色が響き渡るように、人生におけるあらゆる活動も、その音色が永遠の世界へと響いています。」

私たちは死によって消えてなくなる存在ではなく、死は別の形態への移行に過ぎず、死とは永遠の世界への移行を意味する。

そして、永遠とは・・・

「C・Sルイスがナルニア国物語の最後の部分でこの『永遠』についての概念を上手に表現しています。

『これで物語はおしまいなのですが・・・しかし彼らにとって物語はまだほんの緒についたばかりです。この世界における彼らの人生はすべて・・・カバーページや表題にすぎません。そして今、ついに彼らの偉大な物語の第一章が始まろうとしているのです。この話の続きを読んだことがある人はこの地上にはいません。この話に結末はありません。そして、すべての章は前の章よりも良くなっていくのです。』 」

長いと感じるこの人生も、今後私たちが歩むことになる本当の人生と比べると、準備段階に過ぎない。それは運動前にするストレッチのようなもの。けれどストレッチをきちんとせずに運動することは危険だし、それをせずに運動すると思わぬ怪我をしてしまうことがある。

この「準備」がどれほど大切かについては、何千年も前から繰り返し、繰り返し様々な人を通して語られている。

神さまは私たちのために壮大な計画を立ててくれている。だからこそしっかり準備をして備えていなさいって言っているんだ。私たちはこの人生において、さらに優れたもののために大事な大事な準備をしているところなんだ。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを神は御自分を愛するものたちに用意された。」



私が朝、目覚めた時も、私の身元は永遠という場所にあり、私の故郷は天にあるということを覚えて、一日をはじめることができますように。そして、今日という日、やがて過ぎ去るものではなく、いつも永遠に続くものを追い求めていくことができますように。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2.コリント4・18)

「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13・8~13)


2007/10/22

アシジの聖フランシスコ


ー心のともしび10月号 湯川千恵子「アシジの聖フランシスコ」よりー

イタリア・中世の聖人、
聖フランシスコの伝記映画「ブラザーサン・シスタームーン」の中で若いフランシスコが壊れた教会を修復しようとレンガを積みながら歌う歌があります。

http://jp.youtube.com/watch?v=D-HabI9ez9M

「夢をまことにと思うならば、
焦らずに築きなさい。
その静かな歩みが遠い道を行く。
心を込めれば全ては清い。

この世に自由を求めるならば、
焦らずに進みなさい。
小さなことにも全てを尽くし、
飾らない喜びに気高さが住む。

日毎に石を積み続け
焦らずに築きなさい。
日毎にそれであなたが育つ。

やがて天国の光があなたを包む。」


私はこの歌詞が大好きです。
くじけそうになる私を優しく励まし、チャレンジする勇気を与えてくれるからです。

フランシスコは裕福な家の陽気で遊び好きな息子でした。
勇んで参加した戦場で、悲惨な戦争の現実を体験し、身も心もぼろぼろになって故郷のアシジに帰り着きます。

中世の腐敗した既存の教会に絶望し、まことの信仰を求めて魂の放浪を続けていたフランシスコは、ある日、荒れ果てた教会の十字架上から「私の教会を建て直しなさい」というキリストの声を聞きます。

単純にその教会を立て直すことだと思ったフランシスコは、神様を讃えて歌いながら、一人でレンガを積み重ねていきます。その姿に心打たれた友人が一人、また一人とフランシスコの作業に加わり、やがて愛と喜びに溢れる新しい信仰共同体へと成長してゆきます。

そしてフランシスコたちは中世の教会を建て直してゆくことになります。

どんな小さなことでも、神様への愛をこめて行えば、神様がそれを生かして使われるということ、そして焦らずにその日にやるべきことを精一杯やっていれば、いつかは必ず良い実を結ぶことができるということをフランシスコの歌は教えてくれています。

2007/10/18

静かな旅立ち


肝不全で末期のホームレスの男性Aさん。

Aさんが救急車で運ばれてきた時、長いことお風呂に入っていなかったのかすごい臭いだった。こんなんじゃ何もできやしないとさっそく師長みずからお風呂に入れていた。

そして何日か後にAさんは旅立っていった。

みよりもなく誰にも看取られることなく孤独に亡くなっていった・・・とみんな思っていた。

けれども、デス・カンファレンス(亡くなった患者さんについて話し合い、ターミナル・ケアについて振り返るカンファレンス)でパストラル・ケアのシスターが、実はAさんとこんなやり取りがあったんだと話してくれた。

Aさんが亡くなる前々日の夕方。

Aさん 「シスター・・・天国って本当にあるのかねえ」

Sr 「私はあるって信じてるわよ。どうして?」

Aさん 「あったらいいなあ・・・天国が本当にあったらわしもそこに行きたいなあ。わしでも天国に行けるかなあ。」

Sr 「そうねえ、お祈りをしてみたらどうかしら?あなたがキリスト教の病院に運ばれてきたのもご縁というものよ。」

シスターとAさんが話していたとき、ちょうど病院の隣にあるシスター達が住んでいる修道院でお祈りの時間を知らせる鐘がなったという。

Aさん 「あれは何の音?」

Sr 「あれはねえ、神さまにお祈りをする時間ですよって知らせる鐘なのよ。」

Aさん 「へえ・・・。なあ、シスターお祈りってどうやるんだ?」

Sr 「そうねえ、あなたも神社やお寺にいったことがあるでしょ。そこで手を合わせてお願いごとをしたように、手を合わせて神さまに向って今の気持ちをそのまま言えばいいのよ。」

Aさん 「お祈りってわしもしていいのか?」

Sr 「誰でもしてもいいのよ。私もあなたのためにお祈りしてるわね。」

そして、翌日シスターがAさんのとこにいくと、Aさんは顔を輝かせてこう言ったという。

Aさん 「わしなあ、あの後ずっとお祈りしてたんだ。一晩中あんたのとこの神さんに祈ってたんだよ。」

Aさんはシスターと話した後一晩中神さまに「天国に行けますように」とお祈りをしていたという。

そしてその翌日、Aさんはとても静かに穏やかに息を引き取った。

私は受け持ちになることもなかったので、その患者さんについてほとんど知らなかった。 けれどパストラルケアのシスターからこの話を聞いてびっくりした。

そんなことがあったんだ・・・。

なんだかうまく言葉が見つからない・・・。
ただイエスの存在を感じた。そして、よかったと思った。

Aさんは一人じゃなかったんだ。イエスがその人と共にいてくれたんだ。
そして「天国に行きたい」というAさんの望みは確かに届いたんだ。

本当によかったと思った。

イエスはいつも働いている。 特に孤独な人、苦しんでいる人、見捨てられた人の中で。

神様の憐れみを最も必要とする人の中で。

2007/10/13

生きるために 生きる


血液内科にいくとよく目にするポスターがある。 骨髄バンク登録を呼びかける本田美奈子さんのポスター。

急性骨髄性白血病で2005年の暮れになくなった本田美奈子さん。
本屋さんでぶらぶらと過ごしているとちょうど彼女の本が目に入ったので、立ち読みしてしまった。

本の最後に「Wish」という歌の歌詞がのっていて、その歌詞を読んで泣きそうになった。

「Wish」

ささやかな幸せと 好きな歌を信じて
心おだやかな朝
書き出した手紙

いまはすべて 輝く
いまがすべて 眩しいほどに

駆け回るこどもなら
素直に感じること
風が気持ちよいこと
ただ忘れていた

日々はすべて 生まれる
日々はいつも 新しくなる

あたりまえのことばたち
「ありがとう」も「おはよう」も
あたりまえの ことばかり
美しく思える そんな日がある

振り向けば そばにいて
おしゃべりして 
笑って ひとにつながりながら
いま生きていること
時はそっと教える
時がきっと愛おしくなる

あたりまえに 来る朝も
光る海も 雨の街も
あたりまえの ことなのに
かけがえのない日々

生きる意味は 生きること
探しながら 迷いながら
生きるために 生きること

かけがえのない日々
ただ抱きしめて
いま そこにある幸せを・・・・


「生きるために 生きる」という言葉がとても心に響いた。
苦しみの中で生き抜くために、そして最後の苦しみを乗り越えようとした人の言葉だと思った。

よく早く死んでしまいたい。命を絶ってしまいたいと訴えてくる患者さんがいる。実際、病気を抱えながら生きている患者さんはすごいと思う。私だって、あのような苦しみを抱えてたら、死にたいって思うに違いない。

患者さんの訴えに共感するということは大切な看護の一つ。 けれど彼等の苦しみを考えようとすると、そのあまりの大きさに、どこかで彼等の苦しみを共感しようとする自分をシャットアウトしないと毎日の業務をやっていけそうにない時もある。

でも夜勤で時間の空いているとき、時々、そういった訴えをしてくる患者さんの部屋にいって、話を聞いて、そして私の見てきた、生き抜いた人たちの話をする。その人の生き様、死に様をほんの少し。

生きることはつらいし、苦しい。

けれど、途中で投げ出さず、ただ生き切るという事は、本当にすごいこと。
生きているだけでも、何かしら得るものがあるということ。そして生き抜いた人の顔は本当にきれいで、輝いていたということ。

ただそれだけを話す。

彼等の苦しみを味わってもいない私がこんなことを言うのもおこがましいのかもしれない。でも苦しみの中で生きるためには目的が必要だ。その目的を与えようともせずに、ただ生きることを求めることの方が残酷なような気がして話さずにはいられなかった。

「生きるために 生きる」ということは素晴らしい目的だと思う。

実際生き抜いた人たちから感じる、時の輝き、命の輝き・・・それを確かに感じてきたから。

「人はみんな生きるために生まれてくる。だけど、さまざまな困難に直面したとき、人は悲しみに打ちのめされ、絶望してしまう。でもあきらめないでほしい。希望を失って立ち止まってもいい。でもゆっくりでいいから、もう一度勇気を出して、前を向いて歩き出そう。だってあなたはそのいのちを輝かせるために、生まれてきたのだから」

聞く人によっては、甘っちょろい戯言にも聞こえるかもしれない言葉。けれど、私にはとっても響いた。 やっぱり生き抜いた人の言葉だから。

命の輝き・・・そう、私は人の命を輝かせるための援助ができるナースになりたいな。
そのためには、まずは、自分がきちんと生きなければね^^。
私の命を輝かせてくださる方につながりながら。

2007/04/23

夫婦愛


病棟で働いていると実にいろんな人に会う。病気を患っていても精一杯生き抜いてきた人の笑顔は本当にステキだ。こっちが癒されてしまう。

その中でいいなあと思う夫婦がいる。もう余命いくばくもなく、日ごとに弱っていく夫の世話を続けている奥さん。

毎日汚れた洗濯物を持ち帰って、そして新しい寝巻きやオムツを持ってきたり、もうほとんど食べ物が喉を通らないのに、夫の好きなものを作ってきたり。家と病院の往復の単調な毎日。

私たちが見ているのはその人たちのごく一部だけど、彼らにはどれだけのことがあったんだろう。

戦争を経験して、結婚して、子供が生まれて・・・何十年も連れ添った夫婦としての最後の時間をとても大切に大切に過ごしている。 愛する人の弱っていく姿を見続けるのはとてもつらいだろうに。

でも、最後にその人が逝った時に最後まで看取りきったという思いはその人がいなくなった後でも大きな支えになるんだろうなあと思う。そして最後に思い切り泣いて、思い切り悲しむことができるのは幸せなことなのだろうなあと思った。

いろんな人を看取ってきて、最近よくそんなことを考える。

先輩が「やっぱり40になってもいいから絶対結婚しよっ!」って意気込んで言ってたのにはちょっと笑えた。夫婦愛っていいなあって思った今日この頃。

2007/04/09

Passion


日本史の中の有名人フランシスコ・ザビエル。
1549年 8月15日(旧暦7月22日) - フランシスコ・ザビエルらの一行が鹿児島に上陸、キリスト教日本伝来。

日本で初めてイエス・キリストのことを伝えようとしたフランシスコ・ザビエル。
ほとんど知られていない「十字架上のキリストへの祈り」という彼の祈りを読むといつも心がふるえる。

教科書でしか知らないザビエルがどれだけ熱い魂の持ち主であったか、地の果にまで行こうとしたザビエルのイエスへの思いがどれほど深いかが伝わってくる。

『主よ、私があなたを愛するのは
あなたが天国を約束されたからではありません。
あなたに背かないのは
地獄が恐ろしいからではありません。

主よ、私をひきつけるのは あなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは 十字架につけられ、
侮辱をお受けになった あなたの傷ついたお体です。
あなたの受けられた恥ずかめと死です。
そうです。主よ、 あなたの愛が私を揺り動かすのです。

ですから、たとえ天国がなくても
主よ、私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても わたしはあなたを怖れます。
あなたが何もくださらなくても 私があなたを愛します。
望みが何もかなわなくても 私の愛に変わることがありません。』

フランシスコ・ザビエル

2007/04/06

Mother Earth


ソロモン諸島で2日M8規模の大地震があったということをさっき、お母さんの電話で知った。最近ニュースを見ていなかったので、今さらながらびっくり。



みんな無事かな。心配・・・。私がソロモンに行った4年前の時点ですでに海面上昇が深刻な問題になっていたのに、それに加えて地震なんて。

なんだか、心が痛む。


先進国の人達がもたらした影響がなぜ自然の中で素朴に暮らしている人たちの上に起こらなければならないんだろう。海面上昇も、地球の温暖化も彼らのせいではないのに。

以前、赤道付近の島々の人たちが貧しい中からお金を出し合って自分たちの置かれている状況を知ってもらうために環境問題の国際会議、京都会議に参加したという話を聞いたことがある。けれど彼らの意見が聞かれることはなく、ただ自国の利益、経済を維持するために、自国の主張を繰り返し、温室効果ガスの削減に限りなく消極的であった某国。

ひどいと思った。でも私もソロモンに行くまで、正直地球温暖化の問題なんて考えたこともなかった。あるとすれば猛暑や暖冬になったときくらい。でも、ソロモンに行って本当に私達が地球の上に住んでいるんだってこと、すべてのものはつながってるんだってことを実感した。

環境問題をきちんと知って一人ひとりが取り組んでいかなきゃいけないことを思い知らされた。

ところで、カフェ巡りが好きな私は以前、国分寺にある「スローカフェ」というところにいった。そこでこんな話を知った。南米アンデスの「ハチドリのひとしずく」というお話。


「森が燃えていました。 森の生きものたちは、われ先にと逃げていきました。 でも、クリキンディーという名のハチドリだけはいったりきたり くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。 動物たちがそれを見て『そんなことをしていったい何になるんだ』といって笑います。 クリキンディーはこう答えました。 『私は、私にできることをしているだけ』」

とりあえず、小さなことから、私にできることからしていこう。南の島の友人たちのために。

どうか神さま、あなたを愛しているソロモンの人たちをお守りください。 救助を必要としている人たちが早く助け出されますように。 そして彼らにとって必要なものが早く届きますように。 自然災害や環境破壊の影響から彼らの生活を守ってください。 彼らの声が世界にもっと届きますように。 多くの人達、特にあなたを愛する人達が、あなたが与えてくださった自然を大切にすることを学び、そういった問題にきちんと取り組んでいけますように。

私の視野をもっと広く、大きくしてください。そうして海を隔てた兄弟姉妹ため、未来の子供たちのため、そしてあなたが造られた大きく、美しい偉大な被造物「地球」という星のことも考えて生活していけますように。



1971年、7月にアポロ15号で宇宙を飛んだジェイムズ・アーウィンは次のように書いている。


「地球はわたしたちに、クリスマスツリーに下げる飾り玉を思い出させた。暗黒の宇宙に吊るされた飾り玉、それが地球。ロケットが地球から離れるにつれて、それはどんどん小さくなっていった。 ついにビー玉、想像もできないほどきれいなビー玉のようになった。 あの美しくあたたかい生命体である地球が、 なんと壊れやすく、弱々しく見えたことだろう。 指で触れれば、こなごなに崩れて、ぱらぱらと落ちていきそうだ。 こんな地球を見たら、人間は変わらざるを得ない。 神がみずからこの宇宙を創造され、 愛していてくださることを感謝せずにいられない。」

すべての宇宙飛行士が、私達の住む惑星地球の言うに言われぬ美しさに、圧倒されている。そして必ず「どうしたらこのふるさと地球をもっと大切に守れるか?」という問いを発している。大切に保護することが必要な、二つとない小さな宝石であるこの惑星を宇宙から眺めるということは、生命の心もとなさ、人類は宇宙でただ一つの家族であるということ、神の視点、そして神の愛を明らかにしてくれる。それはなんて神秘的な体験なのだろう。

いつか私達にも、私達が住む星を外から眺めることができる日がやって来るのかもしれない。でも・・・外から眺め続けなければならない日が来ないことを祈っている。



ソロモンの家のベランダから見える夕日。
息を呑むような荘厳な眺め。何か音楽が聞こえてきそうだった。
ENYAのSUMIREGUSAなんて曲が似合うかもしれない。 
http://youtube.com/watch?v=RWvQYPfZ7gA

2007/04/03

You are loved


christianになって今年で7年目。神から私達へ語られる「良い知らせ」、すなわち福音。改めて福音とは何だろうって考えたとき、一言で言いあらわすとするならば、「あなたは愛されています」ってことなのだろうなあとよく思う。

私達は深く愛されている。

これこそが真実であり、他のいっさいは虚無に過ぎないと言ってもいいのかもしれない。

競争社会と呼ばれる現代の社会が私達に「あなたは価値のないもの、そうでなければその証拠をみせなさい」とどれだけけしかけたとしても、それは虚無に過ぎない。それでも、どれだけ容易に自分がこの誘惑に屈してしまうかを日々思い知らされている。

私達がこの誘惑に屈してしまったとき、イエスはとても悲しんでいるのだろう。どっちにしても、私達を陥れる本当の罠は神に愛されている自分を否定すること。そして虚栄とか高慢とか呼ばれるものとは自己否定の別の側面とでも言えるのかもしれない。高慢とは、自分が見ているような自分の姿を他人に見られまいとして、自分を高い位置に置こうとすること。突き詰めていえば、自分には価値がないという感情を別な仕方で表しているに過ぎないのかもしれない。

自己を否定する誘惑に苛まれたとき、そんなときこそ、「私は主から求められ、愛されている。」と繰り返してイエスが命をかけて私達に示してくれたその真理をきちんと受け止めていきたい。 それこそが彼が私達に一番伝えたかったことなのだと思うから。

この社会に適応できないとしても、生きている価値のない人なんていないし、生きなければいけない。 なぜなら私達を、この世界を造られた方がそれを望んでいるのだから。

日々の生活の中で神さまに祈り続けていると、私達がどれだけ愛されていて、私達は愛されるために生まれてきたんだってことがわかってくる。

私達一人一人がとても大切な存在で、私達を生かすために、自分の命をも顧みない存在が確かにいるということ。そして、その存在はいつも一人一人のそばにいてくれる。だから決してひとりぼっちになることはない。

深夜、病室をラウンドしていると、私の手をにぎって離そうとしない患者さんがいる。 さみしいのだろう。私はこのことを、病気に苦しみながら、孤独に耐えている患者さん、自分には生きている価値がないと思っている患者さんにどれほど伝えたいかしれない。

この言葉は旧約聖書・続編にある『知恵の書』に書かれているもの。私の好きな言葉。

「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ。
すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」

「愛する者よ」と呼びかけるやさしい穏やかな声を繰り返し、繰り返し聞くことで、この世界によって歪められた自分ではなく、神さまに愛されているありのままの自分でいつもいられることができますように。

静けさのうちに心の耳を澄ませると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。

「わたしは、はるか以前からあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの、わたしはあなたのもの。
あなたはわたしの愛する者、わたしはあなたを喜ぶ。
わたしはあなたを地の深いところで仕組み、母の胎内で組み立てた。
わたしは手のひらであなたを形作り、わたしの懐に抱いた。

わたしはあなたを限りないやさしさで見つめ、
母がその子を慈しむ以上に、親しくあなたを慈しむ。
わたしはあなたの頭の毛のすべてを数え、
あなたのすべての歩みを導く。

あなたがどこに行こうと、わたしはあなたと共に歩み、
あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。

あなたのあらゆる飢えを満たす食物を与え、
すべての渇きを静める飲み物を与える。

わたしはあなたから顔を隠すことはしない。
あなたは自分のようにわたしを知り、わたしは自分のようにあなたを知る。

あなたは私に属する。
わたしはあなたの父であり、母であり、
兄弟であり、恋人であり、配偶者であり
・・・そう、あなたの子供ですらある。

あなたがどこにいようと、わたしはそこにいる。
わたしたちを引き離すものは何もない。

わたしたちは一つである。」

2007/04/02

Mercy Ministries


                                                   
今は子供の虐待についてのニュースが後を絶えない。
子供たちが虐待の犠牲になって、成長してからもその深い傷の影響で破綻した生活を送らざるを得ない事が多く、精神を病み、薬物中毒、リストカット、引きこもり、売春、犯罪に走ってしまう。

Mercy Ministriesとは虐待やレイプや薬物中毒などによって心や体に傷を負って生活が破綻してしまった女の子たちを一時的に保護し、神さまの愛よって傷を癒し、そして社会で幸せに生きることができるように援助するというもの。

詳しくはHP見てね。(英語です)
http://mercyministries.org/
VIEDOもあります。
http://mercyministries.org/IntroVideo.html

Mercy Ministriesをはじめたナンシーアルコーンは当初政府による更生施設で働いていた。そこでは飴と鞭を使い分け、現代の心理学に基づいて、更生をはかろうとするものだった。

しかし一時的に表面の行動は変わったとしても、釈放された後は再び同じことを繰り返してしまう。しかも心理学者は、「あなたは小さいころから親に虐待を受けて育ちました。あなたの親もまた、虐待を受けて育ったのです。ですからあなたは自分の子供を虐待してしまう可能性が非常に高い。」と彼らを励ますのではなく、傷ついた心にとどめを刺さんばかりのことを言い続けていた。

そこには希望ではなく、絶望しかなかった。 ナンシーは更生施設での苦い経験から、人間は内面から変わることがない限り、自分の行動を変えることはできないと確信していた。

けれどイエスはすべてを理解することができる。
愛と憐れみによって傷を癒し、内面から造り変え、新しい心を与えてくれる。
そして親から子へと続く罪の連鎖を断ち切ってくれる。

イエスに導かれながらナンシーはMercy Ministries の活動を始めた。

その成果は目を見張るばかりだった。 驚くほどの速さで、女の子たちの傷が癒され、イエスによって内面から作り変えられ、生まれ変わることができた。生まれ変わることのできた喜びが彼女たちを満たしていた。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)


再び社会に戻り、その後も幸せな結婚をする人、マーシーに戻って、今度は立場を変えて、傷ついた女の子たちが癒されるために働くようになる人もいるという。

さらに、彼女たちを養い、保護するための施設や備品は使い古したもの、汚いものであってはならないとナンシーは言っている。

建物や家具は見た目もきれいで、美しく、自分がまるで大切な家族の一員だと思えるような『家』でなければならないと。そのために莫大な費用がかかるけど、Mercy Ministriesはすべて無料で行われ、活動は奇跡的にもただ献金のみによって支えられている。そんなことでやっていけるのかと思うかもしれない。でも今じゃアメリカのみならず、世界の各地にMercy Ministriesの施設が建設され、成果をあげている。

一体どうやって運営されているんだろう??

ナンシーはMercy Ministriesにあてられた献金による収入の10分の1を毎回「必ず」さらに献金するように神さまに語れたという。そうするかぎりこの活動は絶対に破綻することはないと。

仕事も、才能も、お給料も、すべては神さまからの贈り物。毎月、毎月、神さまからいただいたものの10分の1を神さまにきちんと返していくこと。そうしていくかぎり、いざというときもお金に困ることはなく、経済的にも繁栄するという。

「十分の一の捧げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。諸国の民はあなたたちを幸せな者と呼ぶ。」(マラキ3・10~)


神さまにいただいたものを、神さまにきちんと返していくかぎり、神さまはそれぞれの仕事で成功し、栄えるようにと私たちを祝福してくれる。

神さまの支えによって人間の努力だけでは決してできないような大きなことを成し遂げることができる。 Mercy Ministriesはその素晴らしい例であり、その活動は超自然的な方法で運営されているといっても過言ではないかもしない。

Rodさんが傷ついた女の子を保護する施設について時々話すことがあったけど、Jesus Life Houseの活動の一環としてMercy Ministriesを始動するために着々と準備がすすんでいるみたいだ。

お金もだいぶたまり、今は素晴らしい「家」が見つかり、そしてMercy Ministriesのために働く人が整えられるように、そしてこの日本で神さまの癒しを必要としている人々のために祈った。その時にこんなことを思った。

イエスは人を救うために、捕われ人を自由にするために どれだけ傷ついてきたのだろう。

けれど死をも滅ぼして復活するほどの圧倒的な強さを持っている。私たちのゆるぎない砦。

親殺し、子殺し、兄弟殺し、さらに堕胎・・・
カインの罪が横行し、死の霊が覆うこの現代の闇。

「死の影の地に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が刺し込んだ。」

イースターの前のこの時期はイエスの受難を黙想し、犠牲をささげる期間。私の選ぶ断食はこれ。

「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと
それを、お前は断食と呼び、
主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。

悪による束縛を絶ち、
くびきの結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、
くびきをことごとく折ること。

更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ、
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。

そうすれば、あなたの光は曙のように刺し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。

あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば 「わたしはここにいる」と言われる。」

(イザヤ58:5~9)

Message from Mother Teresa


クリスチャンになってから間もないときにマザーテレサのこの言葉を読んでとても心に響きました。本の中でイエスについて知るだけの私にイエス自身が語りかけてくれたように感じたそんなメッセージ。


『あなた達の中にまだイエスと本当に出会っていない人がいるのではないかと心配です。 一対一であなたとイエスだけでということです。


私達は聖堂で時を過ごしますが、
あなた達はイエスが愛を込めてあなた達を見ているのを
自分の魂の目で見たことがありますか?

あなた達は本当に生きているイエスを知っていますか?
本によってではなく、こころの中で彼と共にとどまることによって。あなた達はイエスが語りかける愛情のこもった言葉を 聞いたことがありますか?

恵みをもとめなさい。
イエスは恵みを与えたくて仕方がないのです。』

マザーテレサ