2007/11/02

永遠



11月は死者の月。

私の勤め先の病院の地下通路にあいだみつおの言葉を載せた日めくりカレンダーがかかっていて、いつも出勤するときに「今日の言葉はなんだろう?」って見ているんだけど、10/31のことばは「おかげさん!」でした。

私たちがこの世に生きているのもご先祖さまの「おかげさま」
この世に生き、そして生をまっとうされた方がたに思いを馳せ、感謝を捧げていこうと思う。

そして、死者に思いを馳せると「永遠」についても考えざるを得ない。

ターミナル・ケア(末期医療)のパイオニア的な存在である精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが約2万人(!)もの臨死体験をされた患者さんと面接し、私たちが死後、経験するであろうことについてまとめた論文の中でこんなことを書いていた。


「第四期:生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぶ人もいる。過去、現在、未来にわたるすべての知恵がそこにあったとしかいえないと報告した人たちも多い。批判することもなく裁くこともない愛の本源である。

・・・走馬灯のように「ライフ・レビュー(生涯の回顧)をおこなうのはこの段階である。自分の人生のすべてをそこで振り返ることになる。その人が生前にとった行動がまったく知らない人も含めて他者にどんな影響を与えたかが、手にとるようにわかってくる。 ほかにはどんな人生を送ることができたのかも示される。

あらゆる命がつながりあい、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響を及ぼしているさまを目の前にみせられる。

天国か地獄のような場所だとわたしは思った。たぶんその両方なのだろう。

神が人間に与えた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、誰にも恥じることもない最高の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。

生還者の報告によれば、死後の生の入り口では、誰もが同じ問いに直面する。

「どれほど奉仕してきたか?助けるために何をしたか」

これほど厳しい問いはない。そのときに答えればいいと思っていたら手遅れになる。」

この文章を読んで十字架の聖ヨハネの言葉を思い出した。

「私たちは生涯の夕べに、愛について裁かれるでしょう。」

さらに、リック・ウォレンは「人生を導く五つの目的」という本の中でこのように表現していた。

「私たちが地上でしたすべてのことについては、永遠における結末が待っています。あたかもギターのピックで弦をはじく時にある音色が響き渡るように、人生におけるあらゆる活動も、その音色が永遠の世界へと響いています。」

私たちは死によって消えてなくなる存在ではなく、死は別の形態への移行に過ぎず、死とは永遠の世界への移行を意味する。

そして、永遠とは・・・

「C・Sルイスがナルニア国物語の最後の部分でこの『永遠』についての概念を上手に表現しています。

『これで物語はおしまいなのですが・・・しかし彼らにとって物語はまだほんの緒についたばかりです。この世界における彼らの人生はすべて・・・カバーページや表題にすぎません。そして今、ついに彼らの偉大な物語の第一章が始まろうとしているのです。この話の続きを読んだことがある人はこの地上にはいません。この話に結末はありません。そして、すべての章は前の章よりも良くなっていくのです。』 」

長いと感じるこの人生も、今後私たちが歩むことになる本当の人生と比べると、準備段階に過ぎない。それは運動前にするストレッチのようなもの。けれどストレッチをきちんとせずに運動することは危険だし、それをせずに運動すると思わぬ怪我をしてしまうことがある。

この「準備」がどれほど大切かについては、何千年も前から繰り返し、繰り返し様々な人を通して語られている。

神さまは私たちのために壮大な計画を立ててくれている。だからこそしっかり準備をして備えていなさいって言っているんだ。私たちはこの人生において、さらに優れたもののために大事な大事な準備をしているところなんだ。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを神は御自分を愛するものたちに用意された。」



私が朝、目覚めた時も、私の身元は永遠という場所にあり、私の故郷は天にあるということを覚えて、一日をはじめることができますように。そして、今日という日、やがて過ぎ去るものではなく、いつも永遠に続くものを追い求めていくことができますように。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2.コリント4・18)

「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13・8~13)


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