
christianになって今年で7年目。神から私達へ語られる「良い知らせ」、すなわち福音。改めて福音とは何だろうって考えたとき、一言で言いあらわすとするならば、「あなたは愛されています」ってことなのだろうなあとよく思う。
私達は深く愛されている。
これこそが真実であり、他のいっさいは虚無に過ぎないと言ってもいいのかもしれない。
競争社会と呼ばれる現代の社会が私達に「あなたは価値のないもの、そうでなければその証拠をみせなさい」とどれだけけしかけたとしても、それは虚無に過ぎない。それでも、どれだけ容易に自分がこの誘惑に屈してしまうかを日々思い知らされている。
私達がこの誘惑に屈してしまったとき、イエスはとても悲しんでいるのだろう。どっちにしても、私達を陥れる本当の罠は神に愛されている自分を否定すること。そして虚栄とか高慢とか呼ばれるものとは自己否定の別の側面とでも言えるのかもしれない。高慢とは、自分が見ているような自分の姿を他人に見られまいとして、自分を高い位置に置こうとすること。突き詰めていえば、自分には価値がないという感情を別な仕方で表しているに過ぎないのかもしれない。
自己を否定する誘惑に苛まれたとき、そんなときこそ、「私は主から求められ、愛されている。」と繰り返してイエスが命をかけて私達に示してくれたその真理をきちんと受け止めていきたい。 それこそが彼が私達に一番伝えたかったことなのだと思うから。
この社会に適応できないとしても、生きている価値のない人なんていないし、生きなければいけない。 なぜなら私達を、この世界を造られた方がそれを望んでいるのだから。
日々の生活の中で神さまに祈り続けていると、私達がどれだけ愛されていて、私達は愛されるために生まれてきたんだってことがわかってくる。
私達一人一人がとても大切な存在で、私達を生かすために、自分の命をも顧みない存在が確かにいるということ。そして、その存在はいつも一人一人のそばにいてくれる。だから決してひとりぼっちになることはない。
深夜、病室をラウンドしていると、私の手をにぎって離そうとしない患者さんがいる。 さみしいのだろう。私はこのことを、病気に苦しみながら、孤独に耐えている患者さん、自分には生きている価値がないと思っている患者さんにどれほど伝えたいかしれない。
この言葉は旧約聖書・続編にある『知恵の書』に書かれているもの。私の好きな言葉。
「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ。
すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」
「愛する者よ」と呼びかけるやさしい穏やかな声を繰り返し、繰り返し聞くことで、この世界によって歪められた自分ではなく、神さまに愛されているありのままの自分でいつもいられることができますように。
静けさのうちに心の耳を澄ませると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。
「わたしは、はるか以前からあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの、わたしはあなたのもの。
あなたはわたしの愛する者、わたしはあなたを喜ぶ。
わたしはあなたを地の深いところで仕組み、母の胎内で組み立てた。
わたしは手のひらであなたを形作り、わたしの懐に抱いた。
わたしはあなたを限りないやさしさで見つめ、
母がその子を慈しむ以上に、親しくあなたを慈しむ。
わたしはあなたの頭の毛のすべてを数え、
あなたのすべての歩みを導く。
あなたがどこに行こうと、わたしはあなたと共に歩み、
あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。
あなたのあらゆる飢えを満たす食物を与え、
すべての渇きを静める飲み物を与える。
わたしはあなたから顔を隠すことはしない。
あなたは自分のようにわたしを知り、わたしは自分のようにあなたを知る。
あなたは私に属する。
わたしはあなたの父であり、母であり、
兄弟であり、恋人であり、配偶者であり
・・・そう、あなたの子供ですらある。
あなたがどこにいようと、わたしはそこにいる。
わたしたちを引き離すものは何もない。
わたしたちは一つである。」